昭和50年 月日不明 10月27日前後 特別報修員 大坪かよこ
信心すること・・?行き届くということは素晴らしいことだと思うですけれども、先日からある方がハワイに行って、今、枯れた花をこう、・・?綺麗に乾かして、それが流行りだと、ハワイあたりでも・・?大きな箱に入って、・・・あれこんなもんを、・・・?思いよりましたら、そりけんちゅうてどこに飾て、様子もなかったんですけれども、先日からそれをわざわざ今度は、ガラスのケースを、ずい分お金もかかったでしょうが、ケースを作って、そしてあの、その下にひく台まで見事に作って、お供えしてくださいました。
そしたらあんまり立派になりましたから、あの、応接間に飾らして頂いた??もうどの品物にも負けないくらい堂々としてある。
・・・?あれがただ、あのハワイからああいうもの買うちきてみえて、そしてお供えされただけだったら、おそらくはもうどこにも飾りようもなかっただろうと思いますね。
けどもそれに今度は、あの、ガラスの器具をわざわざそれに併せて、作らして台まで作って、そこまであのして、帰られたらしいんですけれども、それで初めてなら、応接間にでも堂々と飾られるような立派な・・・?
ように私共の信心が、その行き届かないとき、途中までではない、もう何にもなっとらんようなときもあろうと思うです。せっかくの信心しながらそれが何にもなってない。それが、もう一押し、押したところにですね、なら堂々と応接間に飾るというようにですね、それがいわゆる堂々たる、いうならばおかげにもなっていくということ、確かに、あの実意丁寧神信心ということは、私はほんとに行き届くということだと思うんです。
だから、自分のしておる事なしておることに、行き届いたあり方であるだとろうかといっつも思うて見てね、やはりあの、行き届いた信心、行き届いた有り方を身に付けなければいけないと思うですね。
もうあの、途中までだったら何にもならんといったようなことがあるです。
それが、もうあの一つ押していくために、それが堂々たるおかげになってくるんです。行き届く、もう、おかげを頂く人たちはじっと見ていますとね、行き届いていますね。おかげを受けるという、ほんとのおかげを受けておる人たちは、行き届いとります。
行き届いた信心をさしてもらいたいですね。